大谷: 今日はお時間をいただきましてありがとうございました。私どものWebマガジン「エシカ」は毎月テーマを定めていて、たまたま来月は「境界線」というテーマを考えているのですが、今回の蜷川さんの写真のテーマにも偶然、境界線ということがあってビックリしました。蜷川さんの中で境界線というのはどういう位置づけなのでしょうか?
蜷川: 作品に関していうと、自分の生活だったり、自分の中から出てくるものに近いほど熱量が高くなって、例えば映画だとシンクロできる部分が多ければ多いほど、観てくれる人の熱狂度も違うというのが体感としてあります。ですから、いつも原作を探す時は自分と重なるところがある作品を選びがちですね。
これに対して写真は、対象物との境界線がどこまでなくなるかというのをずっとテーマにしています。それは言葉でのせるとか、コミュニケーションを取るということではなくて、写真を撮ることによって繋がることってすごくあるんですね。そこの境界線が崩れるほど、写真としての強度が強くなるので、ずっとそこを目指してやって来たんです。
でも、それはフィクションの中でそういう状況を作って、どこまでリアリティを持った本当の感情で撮れるか、現実と非現実の間のところで待ち合わせをしようみたいな気持ちで撮っているところもありました。今回は思いっきりリアリティのあるほうに振ってみて、でも、自分の中のリアルを並べてみたら、物語との境界線がすごく曖昧だということが気づきました。
そのほかに、最近大きく変わったことがあって。今まで私は創る人で、作品を観てくれる人がいて、創り手と観てくれる人はあまり一緒くたにしなくてもいいと思っていました。
逆に、それが礼儀だと思っていたし、ベストなものを命懸けで創って対価をいただいて作品を観てもらうという“プロフェッショナル至上主義”だったんです。時代の流れもそうだったと思いますし、ずっとみんなでやる、みんなに優しくということがキーワードだと分かっていましたが、私がやらなくてもいいかなと。どうしても作品の角が取れてしまうし、最後の最後まで抵抗ではないけれど、自分のやり方は他の人とは違うとずっと思っていたんです。でも、コロナの影響もあって、もう少しみんなで一緒にやることがあってもいいのかなと思うようになってきました。それが自分にとってはすごく大きな変化でしたね。