新企画「あなたにとってウェルビーイングとは何か」を担当します永島郁哉と申します。早稲田大学大学院で社会学を研究しながら、休日には古着屋に行ったり小説を書いたりします。
この連載は、ストレス社会に生きる私たちが、ふと立ち止まって「豊かさ」について考えるきっかけとなる、ささいな休憩所のようなものです。皆さんと一緒に、当たり前だと思っていた価値観を一つ一つほどいていく作業が出来たらと思います。
新企画「あなたにとってウェルビーイングとは何か」を担当します永島郁哉と申します。早稲田大学大学院で社会学を研究しながら、休日には古着屋に行ったり小説を書いたりします。
この連載は、ストレス社会に生きる私たちが、ふと立ち止まって「豊かさ」について考えるきっかけとなる、ささいな休憩所のようなものです。皆さんと一緒に、当たり前だと思っていた価値観を一つ一つほどいていく作業が出来たらと思います。
さて、今回で最後の論者紹介となりました。宗教の指し示す理念の変化(第2節)、産業革命に伴う社会構造の変化(第3節)、そして身体をめぐる態度の変化(第4節)と来て、最後は礼儀作法の変化から、「自己」を考えてみます。
突然ですが、皆さんは自分自身を「礼儀正しい」と思うでしょうか?
例えば、高級レストランに行って、食事マナーを徹底できるでしょうか? あるいは、高級な場所でなくても、普段家でご飯を食べるとき、肘をついて食べないとか、箸を立てないとか、大皿に盛ってある料理を自分の箸で掴まないとか、そうした礼儀を守るでしょうか?
答えは人によりけりかもしれませんが、これまで一度もそうしたことに気を遣ったことがない、という人は珍しいのではないかと思います。では、そうした礼儀の作法というのは、何百年も前から同じだったかと言うとそうではありません。
テーブルマナーには手順が多く、筆者は苦手
ドイツの社会学者、ノベルト・エリアスは、『文明化の過程』という本で、「礼儀作法」について興味深い分析をしています。エリアスは大英図書館に所蔵されていた膨大なマナーブックの分析をするわけですが、そこで彼は、礼儀作法というものが時代と共にある1つの方向に変化していることを発見しました。それが「かつては不快ではなかったものが不快になる」という変化です。
例えば、昔の人々は、大皿のスープを1つのスプーンで交代に飲んでいたり、あるいは、動物の丸焼きを食卓で切り分けて食べていました。ところが、時代が進むにつれ、1つのスプーンを使い回すのは汚いということになり、1人1つスプーンが用意されたり、動物の形がそのまま残っている肉塊を見るのは不快だということになり、キッチンで既に切り分けられたものが食卓に並べられることになります。
エリアスはこれを、以前には人々の目に普通に触れていたものが、やがて誰からも見えない部分へと排除されていく動きだと分析します。そして、こうした変化は食事マナーだけではない、と彼は指摘します。
例えば、中世の貴族向けの礼儀作法書には、「自分の信念に従って行動すること」がマナーとされていました。ところが、17世紀に入ると、宮廷人は「感情を表に出さずに常にクールでいること」が礼儀作法とされたのです。つまり、以前は感情を表に出して、良いものには良いと言い、悪いものには悪いと言うことが礼儀正しいことだとされていたのに、時代の変化とともに、何事にも動じない、感情を極力人から見えないように隠すことがマナーとなったわけです。
エリアスは、別の箇所で「閉ざされた人間」という言葉を使って、外の世界から断絶し、自分自身の内側に閉じこもる人のことを説明していますが、こうしたマナーの変化は、「閉ざされた人間化」とも言えるかもしれません。
とりわけ、コミュニケーションにおいては、感情を自分自身のなかにしまい込むことはあらゆる障害をもたらす可能性があります。人々はお互いに感情を隠そうとするので、向かい合っている相手に同情したり共感したりすることが難しくなります。
そして、ウェルビーイングをめぐっては、他者への共感が個人のウェルビーイングには必要不可欠だとする研究結果(鈴木有美・木野和代,2015,「社会的スキルおよび共感反応の指向性からみた大学生のウェルビーイング」『実験社会心理学研究』54(2): 125-133.)があるなど、他者への共感と幸福は切っても切り離せないものだということが確認されています。
相手の感情を探るのは、森を彷徨うようなもの
もちろん、礼儀正しいと相手との感情交流が出来ないかと言えば、全くそうとは言えませんが、エリアスが示唆するのは、自己を絶えず反省し(自己を絶えず振り返り)、自分で自分を監視するような自己の在り方は決して自明のものではないということです。
むしろ私たちが考えるべきなのは、礼儀正しいことが正解か否かではなく、その礼儀正しさの奥にはどのような「私」がいるのかを客観的に捉えることではないでしょうか。礼儀正しくいようとするとき、私はどんな「私」だろうか。そして、もちろんそうした行為もまた「自己監視」のなかに位置付けられることも忘れてはいけません。
私たちは、逃れられない「自己」のなかで生きています。そして、私たちはその自己でもって、ウェルビーイングを考えるしかありません。
もちろんこれは答えのない旅です。だからこそ、ウェルビーイングは社会全体で考えるべき課題だと私は思っています。
今回の連載は如何でしたでしょうか。バックナンバーはこちらからご覧頂けます。
永島郁哉
1998年生まれ。早稲田大学で社会学を学ぶ傍ら、国際学生交流活動に携わる。2019年に公益財団法人イオン環境財団主催「アジア学生交流環境フォーラム ASEP2019」に参加し、アジア10カ国の学生と環境問題に取り組んだ他、一般社団法人アジア教育交流研究機構(AAEE)では学生スーパーバイザーを務め、ベトナムやネパールでの国際交流プログラム企画・運営を行っている。2019年9月より6か月間ドイツ・ベルリン大学に留学。
——Backstage from “ethica”——
今回の連載は、読者対話型の連載企画となります。
連載の読者と、執筆者の永島さんがオンラインオフ会(ZOOM)で対話をし、次の連載の話題や企画につなげ、さらにその連載を読んだ方が、オンラインオフ会に参加する。という形で、読者との交流の場に育てていければと思います。
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